大橋の笑いの種

社会をとらえ直すためのブログ(さまぁ〜ず多め)

親を大事にしなさい、という人が好きになれない

「親を大事にしなさい」「親に感謝しなさい」という人を信用できません。

どうしたらいいのでしょうか。

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先日、知人から思わぬ話を聞いた。


彼女の親は、税金を払っていなかった期間があるとかで年金の支給額が少なく、一人では暮らしていけない。それどころか、どこからかお金を借りているようで、お金が足りない、と彼女にたびたび金の無心に来る。

渡せるお金がない、と言うと親は怒って「親を見捨てるのか」と手が付けられなくなる。近所の目もあり、結局なんとか他のお金を削って親にお金を渡す。


彼女には子供がいる。削るのは子供のためのお金だし、将来の選択肢だ。

たぶん精神的に限界に来ていたのだろう。私に話すつもりはなくて、ついこぼれてしまった感じの話だった。


私は「自分と子供の生活を優先したほうがいいよ」と言った。

彼女は声を詰まらせた。

頼れる身内はいないのか、と聞くと、親戚には「今まで育ててくれたんだから、あなたが支えてあげなさい」とか「親に生活保護を受けさせるなんて、恩知らずだ」とか言われるらしい。

 

私は愕然とした。

 

「親を大事にしなさい」は人を殺す言葉でもある。

彼女の境遇を考えると、親を大事にするということは自分を殺すということだ。親のためにお金を渡して、子供に我慢させて、いったいなんのための人生なんだろうか。

 

親戚が「親を大事にしなさい」としか言えない理由も分かる。その親子に少なからず関係している立場だから、家族を否定してはいけないだろうし、じゃあ代わりにその親の面倒を見てくれるのか、と言われてしまう恐れもある。親を大事にしてくれないと、かえって自分たちの負担が増えてしまうのだ。

行政だってそうだ。家族間で助け合ってもらえば、税金を投入して養う人が減る。

そうやって、彼女の周りからは、彼女を救う人は誰もいなくなる。

親を負担と感じている自分が悪いのだ、大事にできない自分が至らないのだと自分を責めてしまう。

 

「親を大事にする」という耳障りのよい、やさしい言葉は、人を残酷に追い詰めるという悲しい現実を目の当たりにした。

大人に道徳の時間は必要ですか?

親を大事にする、という考え方は、子供に言って聞かせるものだ。母の日なので感謝の手紙を書きましょう、父の日なので、似顔絵を描きましょう。

道徳の時間で教えられるのも、とかくきれいな世界。誰も反対できない世界。

子供の頃のほうが純粋に道徳的なことが出来る。自分は他から守られている存在で感謝しないと生きていられないし、自分が守らなければいけないプライドとか世間体は特にない。

子供のころに基本的な道徳原則は持っていたほうがよくて、この原則が欠如したまま大人になると、とんでもないことになる。

ただ大人になると原則に当てはまらない例外があることを、社会に出て知っていくことになる。例外を目の当たりにしたときに、どんな判断をするかで人の魅力は大きく変わるように思う。

子供の道徳の読み物にでてくるような単純明快な答えばかり出す人は、薄っぺらい人間に感じる。

 

葛藤があるからこそ人間らしい

人々を魅了し読み継がれてきた古典には、義理と人情に板挟みになる人間の葛藤がよく描かれている。

 

義理

物事の正しい道筋。人間のふみおこなうべき正しい道。道理。 

人情

人間の自然な心の動き。人間のありのままの情感。

人としての情け。他人への思いやり

平家物語『敦盛の最期』の、”息子ほどの年齢の若武者を討たなければならない定め”

石川五右衛門やねずみ小僧に代表される“盗んだ金を貧しい者に与える義賊”

森鴎外高瀬舟』の”苦しむ弟を死なせてやった喜助の罪”


義理と人情のどっちを優先すべきかとか、どっちが絶対に正しいとか、言い切ることは出来ない。義理は守らなければいけないが、それだけではないと心が叫ぶ。

こうすべきだった、だがそうするしかなかった、という葛藤が人を泣かせ、救うのだ。


最近は上記のような作品は人気がないのだろうか。守るべき義理ばかり優先されている気がする。それでは、誰も救われない。


親は大事にすべき

という呪縛を解いてあげられる人がふえますように。