らくがき–不思議な少年編–
前回の記事のために描いて、ボツになったイラスト。
サタンをイメージした。美少年の設定だったから。
お絵かきはもっぱら1日1ページ手帳『エディット』にしています。
すごくアナログ。
ペンを入れて写真を撮ると、枠線の点々も写ってしまいます。それをキレイにするためには、点々をいっこいっこ消してく事態になり、すごく大変。
すごく大変な思いをして↑の絵は修正してみた。
ひつじ人間。いろいろ失敗したのでそのまま。
そしてペンを入れると裏移りして汚くなるので、絵を描いたその次の日のページにも文字が書けない。
それじゃあ手帳の意味がない!
らくがき帳に描けばいいのだけれど、案外、「さあ何でも自由に描いて良いのだよ」となると、線が揺れたり、何も思い浮かばなくなったりする。いつも手に取る手帳にパパッと描く方が自由に描ける。
最近はデジタル絵に興味を持っています。だって、皆さんきれーな絵をお描きになってますからね!
iPad欲しいなぁ。
人間は羊と同じである ーマーク・トウェイン『不思議な少年』ー
(この記事は暗めです、念のため。)
また選挙がやってくる。いつも思いだすことがある。
マーク・トウェインの『不思議な少年』で、サタンが言うセリフだ。
「ぼくは人間ってものをよく知ってる。羊と同じなんだ。いつも少数者に支配される。多数に支配されるなんてことは、まずない、いや、絶対にないと言ったほうがいいかもしれんな。」
これだけだと「は?」となるだろう。
まず、この話のあらすじを紹介させて欲しい。
村の3人の少年たちの前に、自らを天使サタンだと言う美少年が現れる。サタンは不思議な力を使い、少年たちに様々な奇跡を見せる。
ある日、サタンと少年達は魔女狩りの現場に出くわす。魔女の疑いをかけられた女性に対して、見物人は石を投げる。3人の少年たちも、周りに流され石を投げる。サタンはそれを見て爆笑。
心の中ではいやだなーと思いながら石を投げた少年の事と、さらに、他の人間の事も笑ったのだという。どういうことか聞く少年に、サタンは説明する。
あの現場には68人の人間がいた。そのうち62人までは、少年と同じだった、石なんか投げたくなかったのだと。
それで、さっきの言葉だ。ほんとうは石なんか投げたくない多数が、石を投げる少数者に支配され、石を投げてしまう。
そのあとサタンの言葉はこう続く。
「感情も信念も抑えて、とにかく、いちばん声の大きなひと握りの人間について行く。声の大きな、そのひと握りの人間というのが、正しいこともあれば、まちがっていることもある。だが、そんなことはどうだっていいんで、とにかく大衆はそれについて行くのだ。」
いつも私達は、「多数の力」で世の中が動くと勘違いしている。
何か決めるとき、私達はだいたい多数決をとる。確かに決定は数の力でなされるが、そもそも個人の意思は、声の大きなひと握りの人に影響され決定されているとは思わないか。声が大きい、とは物理的なことではなくて、発言力のある人。
いじめが起こる時に、このしくみに気づくだろう。
いじめの中心人物は通常魅力的な人で、何らかのきっかけで他の誰かに悪意を向けた瞬間、周りの人達は敏感に感じ取り、同じことをし始める。
いじめがどういうものか忘れた人には以下がおすすめ。
大衆は、正しいか正しくないかは考えないようにし、特に信念もなく、もしくは声の大きい人が言うことを自分にとっての信念なのだと思い込んで、ついて行く。
声の大きい人と同じことをしているので、自分が標的になることもなく、自分の行動を責められることもない。だって、みんな同じことしてるもんね。
なんて滑稽な、悲しい習性だろうか。
思えば、歴史なんて大衆が右往左往した積み重ねで、声の大きい人が正しかったか、そうでなかったかで結果が変わっているだけのことに過ぎない。
おかしなもので、後から振り返ったときに大衆は「だまされた」とか「期待してたのに」とか被害者の顔で語る。いやいや、あなたが愚かだったからではないのか。影響されやすい、弱い人間だったからではないのか。
選挙は、前に選んだ人に対しての評価と反省と、それを踏まえて新しい人を選ぶ、2つの意味がある。この時期の報道を見ると、いつも私はサタンを思い出す。「人間は羊と同じだ」と思う。物理的にも声の大きい戦いが繰り広げられ、より声の大きい人と、それについていく大衆の構造が出来上がり、結果が出る。
結局大衆は何を選んでいるのか、と思うし、自分に対しても思う。安心を選んでいるのではないか、声の大きさに影響されていないか、そもそも声が大きい人の声しか聞こえてないのではないか、考える。
大衆は羊の習性を捨てなければならないが、その努力は何世紀も続いてきて、結局気づいた時にはまた羊になっている。
このまま大衆が羊であるなら、大衆を率いていく人は羊飼いの技術があればよい。もう政治家は、大衆のことを羊だと思っているのかもしれない。
願わくば、正しい人間が羊飼いであることを。
自分にルールを課す、という事
梅雨の晴れ間。
赤信号で止まっていると、学校帰りであろうか、中学生と思しき少年が歩いてきた。
彼にどんな使命があるか私には分からない。いつからそうやっているかも分からない。
ただそれを垂直に維持することで世界が救われるのだ、と言わんばかりの集中力で、彼は手を、腕を動かしている。そしてそのまま、横断歩道を渡っていった。
彼は周りの人間をもれなくニコニコさせていた。
おそらく全ての人が一度はこの『傘バランス』もしくは『ほうきバランス』の使命を負ったことがある。
そしていつの間にか、使命を忘れる。
子供の心を持っていると、自分で様々なルールを作って、「クリア」することに全力をかける。道路の白線だけ踏んで帰ろう、とか、計算ドリルをアニメのオープニング曲中に終わらそう、とか、次の信号まで100歩でたどり着こう、とか。
(大人の心で思えば)特に意味のない、不自由な設定で自分を縛って、その範囲内で自分がどれだけのパフォーマンスを発揮できるか、どきどきわくわくしていた。
自分で設定したルールでクリアしたときの、かつてのあの達成感は、確かに自分の可能性を広げてくれたし、自分を自由にしてくれた。
どうしてだろう。大人になると外から設定されるルールが増えて、それに従うばかりになってしまう。楽しくないし、やる気もでないはずだ。
子供が使命を負っているのを見て、自分もかつてはそうだったことを思い出し、かつてのどきどきわくわくや達成感、キラキラした世界を思い出す。
同時に今の自分からはすでに失われたものだと思う。自分でルールを設定してみることも、しない。自分で自分を不自由にしてみること、それを純粋に楽しむことさえ忘れている。
子供の心を、うらやましいと思う。
だから、「傘バランス」の使命を負った少年をみて、大人達は微笑むのだ。
元ガラケーユーザーの悪夢
突然ですが、携帯電話で文字を打つときの入力方法は何を使っていますか?
①フルキー
英語入力画面になっててすみません。こういう風なキーボード配列になっているもの。
②テンキー
大橋は長らく①のフルキーで入力していました。
フルキーを使ってきた理由
- パソコンのキーボードと一緒なので慣れている。
- 言葉をかな入力に置きなおすのが、非常に面倒。
(例)
「ちょっとtyotto→た行の2番目+や行の5番目の小文字+た行の3番目の小文字+た行の5番目」
「ヴィラvira→あ行の3番目に濁点+あ行の2番目の小文字+ら行1番目」
ヴィラとかめったに入力しませんけどね。
- フリック入力を知らなかった。
これ!!ガラケーをしばらく使ってた人は、どの時点で気づきましたか?
「お」を入力するためには「あ」を5回カチカチしないといけない、と思いますよね?
ずっと「指載せてるとなんか出てくるな」と思ってましたが、まさか、押しながら上下左右にスワイプすると、文字入力ができるなんて!
ネイティブのタッチパネラー(はじめからiPhoneなどを使用していた人)に言われて初めて気づきました。
ガラケー時代はボタンでカチカチするしか方法がなかったから、カチカチカチカチやってたもんです。メール打つと親指が痛くなったりして・・・とかも、もう無い現象なんですね。しみじみ。
フリック入力の方法を知ると、「お」や「こ」に対するやる気が湧いてきます。
おおおおおおこおこおこ おほほほほほほほほほ ととろととろ とろろとろろとろろ
テンキー入力に変えました。
iPhoneの初期設定からフルキーがなくなったものあり、テンキー入力に変えました。慣れていくと、むしろフルキーのローマ字入力の方が不便に感じます。
携帯電話は片手で持ちながら入力するので、フルキーで入力すると、左手からは「o」「p」右手からは「a」「s」という重要なポジションに指が届かない。
キーの面積が小さいので隣のキーに触れてしまうなど、打ち間違いが多くなる。
なんでこんなことやってたんだろ、と思うくらい不便です。
そんな最近、夢をみました。
いや、パソコンはフルキーでお願いします。
入力スピードはフルキーが断トツです。
しかも、夢ではタッチパネルじゃないのでフリック入力が出来ず、「お」は、「あ」を5回カチカチしないといけなかったんです。
めっちゃストレス溜まりますよ。めっちゃ怖くないですか?
そんな、夢の話でした。失礼いたしました。
6/8さま×さま 胴長おじさんの、オシャンティーな話
テレビ朝日の『さまぁ~ず×さまぁ~ず』ではおじさん達の日常のつぶやきが聞けます。自分の日常の感覚だと見逃しがちな、くすっとすることや、はっとすることがあります。
先週6/8に放送された回で、開始早々「なんなの!オシャンティーって!」とご立腹な大竹さん。
会議で”お洒落”の事を「オシャンティー」と言っている若者に違和感を感じたそうで。
それに対する三村さんの解説 ↓
ノッて、自分でツッコむ三村さん。
それにしても 2人とも、即座に語尾が「ンティー」で終わる言葉を見つけている んです。
日々言葉を武器に戦っているからですね。ゆるそうに見えて何気にすごいって、本当にすごいです。
あと、出ました『パンティー問題』。以前にも、さま×さまでは”女性はパンティーをパンティーと呼ばない問題”を扱ったことがあります。では何と呼んでいるのか、検証しましたが、パンツ?ショーツ?そういえば売りものは”ランジェリー”って書いてあるかも!とピンとくる答えは見つからず。女性は”パンティー”って呼んでいるおじさんに引いてしまうのではないか、とおじさんならではの懸念も出てきます。
確かに”パンティー”って神聖化しているような、それこそオシャレに言っているようなキザな感じを受けるので、よろしくないかもです。
普通にパンツでいい気がしますが、いかがでしょうか。
どうしても「オシャンティー」と言われると、バカにされている!とさまぁ~ずの2人は感じてしまうよう。
世代によって人によって、言葉の受け取り方が違うってのは、興味深いですね。
話は変わって、最近どう?に対する三村さんの息子の成長日記。
三村「やだよそいつーー!!( ゚Д゚) この後胴しか伸びないの?」
大竹「そこはもうあきらめないと」
遺伝子と、時代との戦いをこれから息子くんはする訳ですね。
続報に期待。
6/11モヤさまin Paris〜おじゃんに出来る男、大竹一樹〜
久々にモヤさまのハイライトをお届けします。
6/11に放送されたモヤさまでは、海外ロケ20回目にしてフランスの花の都・パリをぶらぶらしました。
初Parisにテンション高めの三村さん。
エトワール凱旋門に登っちゃう!?となりますが、中は果てしない螺旋階段。アラフィフのおじさん達は頑張って登り始めます。
ちなみにモヤさまでは長い階段を登ることが多いです。
「さすが、富士山を9合目まで登っておりた奴!」
と三村さんは言ってました。
みんな、おじゃんにできない。
大橋の敬愛する佐藤雅彦氏が、毎日新聞に月イチで掲載していた『毎月新聞(第9号1999年7/21発行)』に、「おじゃんにできない」というコラムが掲載された。なぜこんな昔の新聞の内容を話せるかというと、一冊の本にまとまっていて、古本屋さんで見つけたからだ。
ピタゴラスイッチ含むEテレの空気感が好きな人、理屈っぽくて他人に「そこ気にする?」と言われたことがある人にはおすすめ。
「おじゃんにできない」の内容は、こうだ。
朝出かけようと玄関でしっかりと靴のひもを結んで、「よし!」と出発しようとした時に、定期券を机の上に置いたままだった、と気付くとする。よくあることですね。あなたならどうするだろうか?
世間体とか考えないで正直に答えましょう。
佐藤雅彦氏の会議メンバー達からは、新聞紙の上に乗って移動したり、ハイハイしたり、出来るだけ接地面が少なくなるように歩いたりと、バラエティーに富んだ解答が次々に出たそうだ。
(ちなみに大橋は同じ状況に陥った時に、「背に腹は代えられない」と土足で部屋に踏み込んだのを親に怒られたことがある)
佐藤雅彦氏は、”靴を脱いで取りに行く”という至極あたりまえの解答がでないことに驚く。
しかし、なぜ靴を脱いで戻る、こんな簡単なことができないのでしょうか。~中略~
それは、せっかく始めてしまったことをおじゃんにして、一からやり直すことにとても抵抗があるからではないでしょうか。~中略~
新しいことを始めるのはかなり意思の力が要ることですが、一旦走り出してしまったものを停めるにもやはりそれ以上の意思の力が必要なのではないかと思うのです。
せっかく建て始めたダムだから、必要ないかもだけど建てる。
戦争が泥沼になっているけれど引き際が分からない。
毎年やっているプロジェクトだから、今年もやる。
「おじゃんにできない」でいる事がなんて多いのだろう。
私達の日常には、慣性の法則が働いている。
動かすためにも、いったん走り出したものを停めるためにも、力が必要だ。
おじゃんに出来る大竹一樹のすごさ。
大竹さんは、やはり普通の人ではない(ほめています)。
普通の人であれば、あの富士山に、しかも9合目まで登ったものなら、あとちょっと踏ん張って頂上まで行き、達成感を味わいたいと思うはずだ。9合目まで来て、頂上からの景色を見ないなんてもったいなさすぎる。今までの頑張りも無駄になってしまう。
だが、大竹一樹はそんな論理では生きていない。私なんかが大竹さんの心理を解明することは出来ないのだが、たぶん、いつも先に進むかどうかをいったん考えてみている。自分の気持ちや体力や周りの状況を考慮して、動くときはまた動くし、必要なければ停まってみる。
まるでどうしようもないように思える大竹さんの特性だが、活きる場面はある。
例えば富士登山に限らず山登りをしていて、天気が悪くなったとする。普通の人であれば、せっかく仕事も休みを取ったし、計画も立ててあるし、せっかくここまで来たし、登ろう。という判断になる。
それで事故にあってしまうことが非常に多い。一度動き出して勢いがある時は、危険が見えても止めることが難しい。
大竹さんなら
「雨が降ってきたよぉー、体が冷たい・・・、え!?今なんか空がピカッてならなかった??・・・もう下ります(-_-)」となる(想像)。
さすがネガティブ代表、危機管理能力が異常に高い。
おじゃんになると落胆と憤りを感じるが、危機を免れる幸福には代えられない。あとはさまぁ~ずの場合は笑いになる。
何かを終わらせられる、「おじゃんに出来る人」って意外に少ない。終わりを言い出したら、おじゃんになった落胆と憤りは、その人が背負わなければいけなくなってしまうから。
そこを大竹さんは意識しているのか分からないけれども、希少な「おじゃんに出来る」人を、この先も観察し続けましょう。
おまけ
結局、凱旋門から見る景色は、『高い所から見る景色』ですものね。
見たいものは遠くから見るに限る。
親を大事にしなさい、という人が好きになれない
「親を大事にしなさい」「親に感謝しなさい」という人を信用できません。
どうしたらいいのでしょうか。
先日、知人から思わぬ話を聞いた。
彼女の親は、税金を払っていなかった期間があるとかで年金の支給額が少なく、一人では暮らしていけない。それどころか、どこからかお金を借りているようで、お金が足りない、と彼女にたびたび金の無心に来る。
渡せるお金がない、と言うと親は怒って「親を見捨てるのか」と手が付けられなくなる。近所の目もあり、結局なんとか他のお金を削って親にお金を渡す。
彼女には子供がいる。削るのは子供のためのお金だし、将来の選択肢だ。
たぶん精神的に限界に来ていたのだろう。私に話すつもりはなくて、ついこぼれてしまった感じの話だった。
私は「自分と子供の生活を優先したほうがいいよ」と言った。
彼女は声を詰まらせた。
頼れる身内はいないのか、と聞くと、親戚には「今まで育ててくれたんだから、あなたが支えてあげなさい」とか「親に生活保護を受けさせるなんて、恩知らずだ」とか言われるらしい。
私は愕然とした。
「親を大事にしなさい」は人を殺す言葉でもある。
彼女の境遇を考えると、親を大事にするということは自分を殺すということだ。親のためにお金を渡して、子供に我慢させて、いったいなんのための人生なんだろうか。
親戚が「親を大事にしなさい」としか言えない理由も分かる。その親子に少なからず関係している立場だから、家族を否定してはいけないだろうし、じゃあ代わりにその親の面倒を見てくれるのか、と言われてしまう恐れもある。親を大事にしてくれないと、かえって自分たちの負担が増えてしまうのだ。
行政だってそうだ。家族間で助け合ってもらえば、税金を投入して養う人が減る。
そうやって、彼女の周りからは、彼女を救う人は誰もいなくなる。
親を負担と感じている自分が悪いのだ、大事にできない自分が至らないのだと自分を責めてしまう。
「親を大事にする」という耳障りのよい、やさしい言葉は、人を残酷に追い詰めるという悲しい現実を目の当たりにした。
大人に道徳の時間は必要ですか?
親を大事にする、という考え方は、子供に言って聞かせるものだ。母の日なので感謝の手紙を書きましょう、父の日なので、似顔絵を描きましょう。
道徳の時間で教えられるのも、とかくきれいな世界。誰も反対できない世界。
子供の頃のほうが純粋に道徳的なことが出来る。自分は他から守られている存在で感謝しないと生きていられないし、自分が守らなければいけないプライドとか世間体は特にない。
子供のころに基本的な道徳原則は持っていたほうがよくて、この原則が欠如したまま大人になると、とんでもないことになる。
ただ大人になると原則に当てはまらない例外があることを、社会に出て知っていくことになる。例外を目の当たりにしたときに、どんな判断をするかで人の魅力は大きく変わるように思う。
子供の道徳の読み物にでてくるような単純明快な答えばかり出す人は、薄っぺらい人間に感じる。
葛藤があるからこそ人間らしい
人々を魅了し読み継がれてきた古典には、義理と人情に板挟みになる人間の葛藤がよく描かれている。
義理
物事の正しい道筋。人間のふみおこなうべき正しい道。道理。
人情
人間の自然な心の動き。人間のありのままの情感。
人としての情け。他人への思いやり
平家物語『敦盛の最期』の、”息子ほどの年齢の若武者を討たなければならない定め”
石川五右衛門やねずみ小僧に代表される“盗んだ金を貧しい者に与える義賊”
義理と人情のどっちを優先すべきかとか、どっちが絶対に正しいとか、言い切ることは出来ない。義理は守らなければいけないが、それだけではないと心が叫ぶ。
こうすべきだった、だがそうするしかなかった、という葛藤が人を泣かせ、救うのだ。
最近は上記のような作品は人気がないのだろうか。守るべき義理ばかり優先されている気がする。それでは、誰も救われない。
親は大事にすべき
という呪縛を解いてあげられる人がふえますように。