大橋の笑いの種

社会をとらえ直すためのブログ(さまぁ〜ず多め)

8/13モヤさまin厚木・海老名

厚木・海老名をぶらぶらした8/13日放送回がとても面白かったので、ハイライトをまとめます。

一言で言うと、福田アナの存在感が3割増しになり、モヤさまの原点がちらっと出てきました。

 

  • 大竹の家庭事情

冒頭のおはがきコーナーで、さまぁ~ずは奥さんの誕生日をどう祝うのか?という質問を受けてトーク

大竹さんはどうお祝いしているのか?聞いても「特に何もしてない」。そんなはずない、奥さんの誕生日に早めに家に帰っていたから、と三村さんが食い下がるも、「いえいえ、ないです。」と何も答えなかった大竹さん。

「家庭事情を何も話さない大竹」で決着がついたのに、その後、大竹さん自ら家庭事情をネタにします。

 

刺繍服を販売しているお店でヤンキーの格好をしよう、となった時のこと。

3人ともヤンキー姿になったところで、三村さん発案で、「これをやったら、お母さんに怒られる」山手線ゲームをすることに。

山手線ゲームとはご存じの通り、お題に沿った解答を順番に言っていくもので、誰もが確かに!と納得でき、お題に合っているかの判定が容易なものが解答として正しい。

で、このゲーム内で想定している「お母さん」が、さまぁ~ずの2人にとっては、いつの間にか「今のお母さん=奥さん」になっているんですね。

 

さあ、スタートです。↓ 

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目玉焼きを作るとお母さんに怒られる、って聞いたことないですね。

なぜ、大竹さんは怒られるのか?大竹さんは目玉焼きが好きで、朝作ることがあるそう。だが大竹さん以外の家族は目玉焼きがあまり好きじゃないので、作っているのを見つかると「え?目玉焼き作ってるの?」となるらしい。

 

気を取り直して、もう一周。↓

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普通、逆ですよね。洗濯物出しなさい!とお母さんに怒られる。

が、大竹家は違う。大竹さんの洗濯物だけ別で洗っているので、他の家族の洗濯の合間で洗濯機が空いている時に、大竹さんの洗濯をする。大竹さんの洗濯物が洗濯機にあるのを見つかると、「え?入っちゃってるのー?」となるらしい。 

 

大竹さんの解答のジャッジに時間がかかり、山手線ゲームは進みませんでした。

嫌がりながら家庭の事情を話し、発表した事を奥さんに知られるのを恐れる大竹さんを見るのも好きです。

 

  • けなげな福田アナ

冒頭の海老名の七重の塔の説明で、すーごい下調べしっかりしているな、と思いました。細かい数字も交えて紹介できるって、さすがアナウンサー。

あと、何気に流行りものについても精通しているんです。ロボットが恋ダンスを踊っている時に、福田アナもこっそり振り付けをやっていました。

 

前回から、アゴを負傷している福田アナ。口が1~2cmしか開かないので、食事シーンでこっそり苦戦。自分からは「食べにくい」などひとことも言わず、焼き鳥やラーメンをちまちま食べる様子がかわいいです。

 

福田アナの言動も拾っていくと面白くなりそうです。今後モヤさまファッションショーでも活躍の余地あり。制服姿もそうだし、今回のヤンキーの格好もありでした。

 

  • 原点回帰
 名物のシロコロのお店に入ってから、大竹さんが「じゃあ、(シロコロは)食べられません」と、突然のメジャー禁止宣言。
ハワイで海禁止、とか月島でもんじゃ禁止、とか懐かしい縛りが復活です。
三村さんも言っていた通り、メジャー禁止縛りは10年前に終わってたと思いますが、復活させるなら喜んで歓迎します。接客に不安があるのも、モヤモヤしていていいですね。
ちなみにこの後、シロコロを圧縮してせんべいにしている食べ物はOKとの許可あり。これもモヤさまらしい。
 

見どころが多かった厚木、海老名回。

福田アナがアゴを負傷したのがきっかけ?なんだか馴染んできたような気がします。

カットされなくなればもっと気持ちよく見れそう~。

 

ポテチは日本政府からまだ睨まれていない

復活しましたね!ピザポテト!!

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さっそく食べてしまいました。

 

さて、いも不足で日本のポテチが姿を消した間、海外のポテチ勢が存在感を増し、売り場に並ぶプリングルスを見て、久々に思い出しました。

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こうやってふざけたなーって。

・・・じゃなくて!

「ポテチ税」の事です。

 

2011年9月に、ハンガリーで通称「ポテトチップス税」が導入された。塩分や糖分が多い食品に課税されるもので、ポテチ1kgあたりには約80円課税。

ピザポテトに置き換えると、

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63gあるので、一袋約5円課税される感じ。

 

これに端を発して、欧州では肥満税なるものが次々に制定されている。ソーダ税、脂肪税、砂糖税。

このニュースを聞いた私は、そういう税金の課し方もあるんだ、と新鮮な驚きで楽しかったのを覚えている。

税金とは、その国の形である

佐藤雅彦氏の著書、『経済ってそういうだったのか会議』にて、税金の仕組みにその国の形が現れる、という趣旨の話がある。

経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)

経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)

 

 

誰からどんな比率でとるか、そこからその国のあり方、戦略が透けて見える。

例えば関税。

海外からわざわざ物を買える人は裕福な人(もう仕組みが変わってきているが)。それに、外国製品に国産品が負けるといけないから、輸入品に税を課す。

ポテチ税の場合は、肥満を減らしたい、嗜好品だからお金にゆとりがある人から税をとれる、といった所だ。

 

贅沢品、健康に悪いものは理由がつけられるので税金を高くしやすい。税金が高ければその商品の競争力は弱まる。企業にとって痛いが、商品の購買欲が弱まることで国を、国民を守れるという事だろう。

 

日本にもタバコ税、酒税がある。

タバコは値段の63%が税金だそうで、本当に、喫煙者には頭が下がる。

 

課税方法は簡単であるべき

さて、『そういうことだったのか会議』でも言われておりますが、課税方法は分かりやすくないと、不公平感が募るばかりです。

イギリスでは軽減税率を採用しており、生活必需品は税率が低くなる仕組みがある。ここから起こった喜劇をご存知でしょうか。

先ほどのプリングルスについて「ポテチだから軽減税率の対象外で、17.5%の税金がかかります」と言われた製造元、プリングルスはポテチではない、ビスケットだ!(ビスケットなら税率ゼロ)と主張し裁判になります。

結果、プリングルスはポテチではない、と判決が出ました。

え?ポテチじゃないの?

どうやら原料のいもの割合が低く、製造方法もポテチとは違うかららしいのだが、え?そもそもポテチ税の趣旨って、肥満を防止するとか、お菓子は贅沢だよね論じゃなかった?“ポテチであるかどうか''でなく、趣旨からすると課税すべきように思うが。

メーカーは税金が低くなるように努力するはずなので、「ポテチじゃないです。」商品が次々出てきてキリがないはず。

 

日本でも「その税率の違いはなんで?」と思う品目がある。種類とアルコール度で細かく分けられている酒税。

スーパーに並んでいるくらいの容量350mlを買うと仮定し、内、どのくらいが税金なのか計算すると、ビールがかわいそうである。

 

不遇の時代を生きるビール。

(ちなみに書き忘れたが2コマ目に登場するのはウイスキーです。)

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アルコール一度あたりで計算すると、

ビール・・・44円

清酒・・・8円

ワイン・・・7円

焼酎・・・10円

ウイスキー・・・10円

です。

これは!明らかにビールが不遇だ。

 

だから企業は「これはビールじゃないです。」商品の開発に全力を注ぐ。

ちなみに発泡酒は350mlあたり28円、アルコール一度あたり16円の課税です。

 

なるほど、発泡酒が増えた訳だ。

 

ビールはもともと輸入品だった名残の税率だとも言われています。新たに税をとったりあげたりする事になったら、業界からの反発はすごいでしょう。

それこそ、ポテチ税とか、砂糖税とか。業界から反発されたら、かえって税収は少なくなるのでは、と思う。しかし、砂糖税についてはWTOから課税するよう推奨されているみたい。

もう時代の流れですね。健康に良くないものはすごく高くして手が届かないようにする。ただ、抜け道を探した「じゃないです商品」ばかりにならないよう、お願いしたいです。

4/30モヤさま歴代メンバー全員集合スペシャル(狩野派)

ずっと、どう書こうか迷ってました。

4/30のモヤさまスペシャル。時間経ちすぎだよ!2ヶ月経ってるよ!!(;゚Д゚)))

 

なんだかね、歴代メンバー全員集合ってなると、必然的に歴代のアシスタントを比較してしまいますね。

誰の時が良かったとか、誰と絡むとさまぁ〜ずがこうなるとか、いろいろな見方や意見はありますが、単純に甲乙つけられないし、他のアシスタントを否定するのも勿体無いと思う。

 

ただね、私は狩野アナが好きです。

 

なぜかって?面白いからです。

狩野アナは芸人か?という位、狩野アナのターンは笑いにつながるし、さまぁ〜ずも分かってて狩野アナをオチに使ってます。

 

とれ高としては、狩野アナにだいぶ助けられていたのではないでしょうか。スペシャル回ではそれがよく分かります。

 

松本ぶらぶら〜縄手通り〜

大江さん、狩野アナ、福田アナとさまぁ〜ずが揃って長野・松本をぶらぶら。

カエルで有名な通りで、ガマガエルみたいなおかみさんにすすめられて、女子3人がカエル帽子を被ります。

ひとりずつ発表。

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おきまりのおとぼけフェイス!!なんで真顔になっちゃうのー!?

綺麗に映るようにしよう、とか間違えないようにしよう、とか考えない素の感じが面白いです。説明看板の要約も、カエルの絵も、クオリティが低いからこその笑い。

きっと、人って人のダメなところを笑えるのが一番楽しいし安心するんだと思う。

最後の『10周年』ソングはむしろクオリティは高かったが、なぜ曲を作る?なぜその曲調?という謎が強く、強烈なインパクトを残しました。

 

そんなモヤさま、10周年らしく、10年の変化を感じられる印象的なシーンもありました。

 

オシャレなレストランに入って食事です。 ステーキを選びます。

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この10年で大竹さんも二児のパパですもんね。

モヤさまで訪れる店も変化しているみたいです。三村さんが「予算が多くなったんだよ」と言ってましたが本当ですかね。

オシャレでそこそこ値が張って美味しいと分かるものを「美味しい」っていうより、「この店、大丈夫かな〜」という不安を抱かせてからの意外と「美味しい」を発掘するモヤさまであってほしいです。

 

この10周年スペシャルをやると聞いた時は、正直複雑な気持ちになりました。

「昔は良かったな」て感想しか出ないんじゃないかと思い。

でも放送を見てたら、結局今までも「昔は良かったな」の繰り返しだったんだし、たぶんこれからも新しい風がモヤさまに吹くんだろうし、5人が楽しそうだし、5人ともモヤさまを愛していたし、良かった、と思いました。

 

それにしても狩野アナの尺は長かった。

子供の頃読んだ本–『モモ』ミヒャエル・エンデ–

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名著は、分かるときに読めばいい。

私は家族の中では一番年下で、いつも背伸びをして家族の話に加わっていた。

ある時、家族の中で『モモ』ブームになった。もともと父か母が好きだったのだろう。ミヒャエル・エンデの本が家には何冊かあった。

その中でも『モモ』は人気だ。兄弟が読んでハマって親と感想を共有しており、私にはそれが羨ましかった。

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

確か私は小学校中学年くらいだった。そんなに面白いのか、と分厚い本を開き文字を追ってみたが、どうも頭に入ってこない。

見知らぬ外国の、身寄りのない子の話である。

挿絵も色彩がなく、無機質な街の絵だったから、話も無機質であるような印象を抱き、途中で読むのをやめてしまった。

これを「面白いとする」感覚が理解できなかった。そのまましばらく、無機質で味がない印象を『モモ』に持って過ごしたのだと思う。

 

その後、どういう経緯でまた『モモ』を手に取ることになったのかは覚えていない。

とにかく私はもう一度『モモ』を読んだ。

前読んだのは違う話か?と疑うほど、どんどん引き込まれた。

確かに物語はどんどん無機質な、灰色の世界になっていく。その波にひとりのまれず、友達を助け前の暖かい世界を取り戻すために戦うモモと、時間が奏でる壮大な音楽、鮮やかな時間の花が咲き乱れる光景が眼前に広がるようで、夢中でページをめくった。文庫本だと400ページ近くある話だが、2〜3日で読んだと思う。

 

なぜ『モモ』の面白さが分かるようになったのか。年を重ねることで経験が増え、違う世界に触れるようになり、吸収できるものが変わったのだと思う。

本に抱く感想、面白さは、本を読む時の自分が何を持っているか。それによって左右されるのだ。

 

名著は、もう一度読むといい。

いま、私の手元には『モモ』の文庫本がある。

最近また手にとって読んでみた。すると、43年前に書かれた児童文学であることに衝撃を受ける。灰色の男に丸め込まれる人々の描写が、まさに今の現代のこと、自分の事を言われているようだ。

 

無駄な時間は切り捨てて、とにかく早く仕事をし、いつもせこせこ、いらいらする大人は、今の自分と差があるだろうか。

なんでこんなに時間が無いんだろう、と思いつつも、さらにせこせこして毎日が過ぎていく。

また、人の話を聞くのが上手なモモの魅力も分かる。しゃべるのは得意な人はたくさん居るが、聞くのが上手い人にはあまり出会わない。話しているうちに本当の自分に気づかせてくれるような、心の奥まで見てくれるような人に出会えたら。

私が願っていたこと、忘れていたことをモモが思い出させてくれる。

 

確かに私は変わった。子供の頃に持っていたものは明らかに失っているし、子供の頃になかったものを明らかに持っている。子供の頃に読んだ感動とは違う感慨がある。

それが良い変化なのか悪い変化なのか、複雑な気持ちにはなるが。

 

名著のすすめ

長く読み継がれている作品は、それだけの理由がある。

多くのひとが「面白いとする」話を知るだけで有意義だと思う。ただ、すぐに無理して読むべきとは言えない。私も一度抱いた印象がありながら、よくまた『モモ』を手に取ったと思う。読めるまで、共鳴できるものが自分の中に出来るまで、そっと置いておいても良いのではないか。

そして自分でいろいろ経験した後に読むとまた染みる部分がある。味わいの変化を楽しむ事が出来る。


教科書で読んだ時に小難しいなーと思った夏目漱石の『こころ』や、森鴎外の『舞姫』、中島敦の『山月記』は、今読んだらどんな感想を持つだろうか。

これら著作物については、読むと病みそうというイメージがあるため敬遠中だ。

ただ、いつかこれらの世界を理解出来るようになればいいと思う。

 

らくがき–不思議な少年編–

前回の記事のために描いて、ボツになったイラスト。

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サタンをイメージした。美少年の設定だったから。

お絵かきはもっぱら1日1ページ手帳『エディット』にしています。

すごくアナログ。

ペンを入れて写真を撮ると、枠線の点々も写ってしまいます。それをキレイにするためには、点々をいっこいっこ消してく事態になり、すごく大変。

すごく大変な思いをして↑の絵は修正してみた。


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ひつじ人間。いろいろ失敗したのでそのまま。


そしてペンを入れると裏移りして汚くなるので、絵を描いたその次の日のページにも文字が書けない。

それじゃあ手帳の意味がない!

らくがき帳に描けばいいのだけれど、案外、「さあ何でも自由に描いて良いのだよ」となると、線が揺れたり、何も思い浮かばなくなったりする。いつも手に取る手帳にパパッと描く方が自由に描ける。



最近はデジタル絵に興味を持っています。だって、皆さんきれーな絵をお描きになってますからね!

iPad欲しいなぁ。


人間は羊と同じである ーマーク・トウェイン『不思議な少年』ー

(この記事は暗めです、念のため。)

また選挙がやってくる。いつも思いだすことがある。

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 マーク・トウェインの『不思議な少年』で、サタンが言うセリフだ。

「ぼくは人間ってものをよく知ってる。羊と同じなんだ。いつも少数者に支配される。多数に支配されるなんてことは、まずない、いや、絶対にないと言ったほうがいいかもしれんな。」

不思議な少年 (岩波文庫)

不思議な少年 (岩波文庫)

 

これだけだと「は?」となるだろう。

まず、この話のあらすじを紹介させて欲しい。

 

村の3人の少年たちの前に、自らを天使サタンだと言う美少年が現れる。サタンは不思議な力を使い、少年たちに様々な奇跡を見せる。

ある日、サタンと少年達は魔女狩りの現場に出くわす。魔女の疑いをかけられた女性に対して、見物人は石を投げる。3人の少年たちも、周りに流され石を投げる。サタンはそれを見て爆笑。

心の中ではいやだなーと思いながら石を投げた少年の事と、さらに、他の人間の事も笑ったのだという。どういうことか聞く少年に、サタンは説明する。

あの現場には68人の人間がいた。そのうち62人までは、少年と同じだった、石なんか投げたくなかったのだと。

それで、さっきの言葉だ。ほんとうは石なんか投げたくない多数が、石を投げる少数者に支配され、石を投げてしまう。

そのあとサタンの言葉はこう続く。

「感情も信念も抑えて、とにかく、いちばん声の大きなひと握りの人間について行く。声の大きな、そのひと握りの人間というのが、正しいこともあれば、まちがっていることもある。だが、そんなことはどうだっていいんで、とにかく大衆はそれについて行くのだ。」

 

いつも私達は、「多数の力」で世の中が動くと勘違いしている。

何か決めるとき、私達はだいたい多数決をとる。確かに決定は数の力でなされるが、そもそも個人の意思は、声の大きなひと握りの人に影響され決定されているとは思わないか。声が大きい、とは物理的なことではなくて、発言力のある人。

いじめが起こる時に、このしくみに気づくだろう。

いじめの中心人物は通常魅力的な人で、何らかのきっかけで他の誰かに悪意を向けた瞬間、周りの人達は敏感に感じ取り、同じことをし始める。

いじめがどういうものか忘れた人には以下がおすすめ。

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

 

大衆は、正しいか正しくないかは考えないようにし、特に信念もなく、もしくは声の大きい人が言うことを自分にとっての信念なのだと思い込んで、ついて行く。

声の大きい人と同じことをしているので、自分が標的になることもなく、自分の行動を責められることもない。だって、みんな同じことしてるもんね。

なんて滑稽な、悲しい習性だろうか。

 

思えば、歴史なんて大衆が右往左往した積み重ねで、声の大きい人が正しかったか、そうでなかったかで結果が変わっているだけのことに過ぎない。

魔女狩りをはじめとする迫害や、戦争や、革命や、政権交代

おかしなもので、後から振り返ったときに大衆は「だまされた」とか「期待してたのに」とか被害者の顔で語る。いやいや、あなたが愚かだったからではないのか。影響されやすい、弱い人間だったからではないのか。

 

選挙は、前に選んだ人に対しての評価と反省と、それを踏まえて新しい人を選ぶ、2つの意味がある。この時期の報道を見ると、いつも私はサタンを思い出す。「人間は羊と同じだ」と思う。物理的にも声の大きい戦いが繰り広げられ、より声の大きい人と、それについていく大衆の構造が出来上がり、結果が出る。

 

結局大衆は何を選んでいるのか、と思うし、自分に対しても思う。安心を選んでいるのではないか、声の大きさに影響されていないか、そもそも声が大きい人の声しか聞こえてないのではないか、考える。

 

大衆は羊の習性を捨てなければならないが、その努力は何世紀も続いてきて、結局気づいた時にはまた羊になっている。

このまま大衆が羊であるなら、大衆を率いていく人は羊飼いの技術があればよい。もう政治家は、大衆のことを羊だと思っているのかもしれない。

願わくば、正しい人間が羊飼いであることを。

 

 

自分にルールを課す、という事

梅雨の晴れ間。

赤信号で止まっていると、学校帰りであろうか、中学生と思しき少年が歩いてきた。

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彼にどんな使命があるか私には分からない。いつからそうやっているかも分からない。

ただそれを垂直に維持することで世界が救われるのだ、と言わんばかりの集中力で、彼は手を、腕を動かしている。そしてそのまま、横断歩道を渡っていった。

 

彼は周りの人間をもれなくニコニコさせていた。

おそらく全ての人が一度はこの『傘バランス』もしくは『ほうきバランス』の使命を負ったことがある。

そしていつの間にか、使命を忘れる。

 

子供の心を持っていると、自分で様々なルールを作って、「クリア」することに全力をかける。道路の白線だけ踏んで帰ろう、とか、計算ドリルをアニメのオープニング曲中に終わらそう、とか、次の信号まで100歩でたどり着こう、とか。

(大人の心で思えば)特に意味のない、不自由な設定で自分を縛って、その範囲内で自分がどれだけのパフォーマンスを発揮できるか、どきどきわくわくしていた。

自分で設定したルールでクリアしたときの、かつてのあの達成感は、確かに自分の可能性を広げてくれたし、自分を自由にしてくれた。

 

どうしてだろう。大人になると外から設定されるルールが増えて、それに従うばかりになってしまう。楽しくないし、やる気もでないはずだ。

子供が使命を負っているのを見て、自分もかつてはそうだったことを思い出し、かつてのどきどきわくわくや達成感、キラキラした世界を思い出す。

同時に今の自分からはすでに失われたものだと思う。自分でルールを設定してみることも、しない。自分で自分を不自由にしてみること、それを純粋に楽しむことさえ忘れている。

子供の心を、うらやましいと思う。

 

だから、「傘バランス」の使命を負った少年をみて、大人達は微笑むのだ。