大橋の笑いのタネ

(さまぁ〜ず多め)

子供の頃に読んだ本『キツネ山の夏休み』富安陽子

大好きな本。

夏のにおいがすると読みたくなる本。

どこが好き、と言われると困る。

夏休みの始まりの期待と不安、むせるほどの草のにおい、 祭りのにぎやかさ、静かに秋が混じっていく風。暑さにまぎれて見える不思議な世界。

夏休みがぎっしりつまった物語である。

 

『キツネ山の夏休み』富安陽子 著 

キツネ山の夏休み (ジョイ・ストリート)

キツネ山の夏休み (ジョイ・ストリート)

 

 

弥(ひさし)がおばあちゃんの家がある稲荷山で過ごす夏休み。

弥と遊ぶのを待っていたかのように、いくつもの不思議な出会いがある。中でも猫の大五郎がとてもいい味を出している。最近ネコが好きだから、よけいそう感じるのかもしれない。

この本のいい所は他にもいっぱいあるだろ!オキ丸と空を飛ぶところとか、など色々意見があると思うが、それでも大五郎の魅力を知ってほしいと思う。

猫の大五郎

まず、おじさんに変身して弥を迎えに行き、荷物を持ってあげた時。

おじさんは二つの荷物を両手にもって、ちょっと考えてから、重い旅行かばんのほうを、そっと弥の手の中にもどしました。

「じゃ、まいりましょうか。」

どうです? このふてぶてしさ。

大五郎は長く生きている猫股。オキ丸とは違って普通に(?)しゃべる猫として存在しています。

「なんでしゃべれるんだ」と怖がる弥に「猫がしゃべっちゃいけませんか」と反論し、「しゃべる猫は化け猫だ」という弥の言葉を律儀に「猫股」と訂正し、「何か悪いことをたくらんでいる」という弥にものの本質を見ろと説く。

猫はそういうと、けだるそうにあくびをして、前足の上に大きな頭をのっけました。
「ま、しかし、なんですな。キツネ騒動の真犯人も人間だったようで、世の中でいちばん化け物じみとるのは、人間かもしれませんな。それにくらべりゃ、キツネも猫股もかわいいものです・・・」

縁側でくつろぐ猫の姿が見えてきます。
大五郎が「ザ・猫」なので、この話を読んだ後は、身近にいる猫がしゃべりだすんじゃないかと思えてきます。

「わしがここにやってくるのは、ただ松子さんがすきだからですよ。あなたのおばあさんが猫股だろうが、化けギツネだろうが、人間だろうが、そんなことは関係ない。その人のことがほんとうにすきだとわかってさえいれば、あとはどうでもいいことです。毛がはえていようがいまいが、足が二本だろうが四本だろうが、化けようが化けまいが。ちがいますか?」

大五郎が言うようにこの話には、いい人間もわるい人間もいるし、いい猫股もキツネも、わるい水クモの精も出てきます。

結局、属性ではなく個々がどうかで、自分が好きなら相手の属性は関係ない。

猫に言われたらすんなり入ってきます。

 

大切な思い出もいずれ忘れる

この寂しさが好き、というとそれこそ寂しい人間なのだが、輝かしい夏に秋が混じっていく物悲しさはなんとも言えない。

弥の父の言葉が最後に向かって活きてきます。

夏は毎年めぐってきますが、弥の十歳の夏はただ一度きりです

同じように稲荷山を駆けまわっただろう父は、今では都会で休みなく働いています。

大好きな稲荷山も、稲荷山で過ごした日々も忘れたくないと強く思う弥。だけど、弥以外の人たちは知っています。同じ夏はもう来ない、この夏の思い出もいずれ忘れてしまうだろう事を。それが大人になるということ。

おばあちゃんがいう。

「(略)なによりたいせつだと思っていたこと、むちゅうになっていたこと、それがみんな、だんだん色あせてね。そうやってわすれていくからこそ、人間は新しい場所で、新しくくらしていけるんでしょうね」

 

弥の10歳の夏は終わる。また会えるか、とオキ丸に聞いた弥。オキ丸はぽつりと言います。

「おまえが忘れなければ」

ぜったいに忘れない、と叫んだ弥。忘れたくない。それでも少しづつ新しい思い出が上書きされていく。この切ない葛藤が好き。

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夏休みの思い出は、いつもきらきらしている。あの一瞬はあの時しかなかったのだと、せつなくなる。だけど、これからの夏だって、未来の自分にとっては輝かしいものになるはずだ。

『夏は毎年めぐってくるが、X歳の夏はただ一度きり』

今年も夏が来る。