子供の頃読んだ本–『モモ』ミヒャエル・エンデ–
名著は、分かるときに読めばいい。
私は家族の中では一番年下で、いつも背伸びをして家族の話に加わっていた。
ある時、家族の中で『モモ』ブームになった。もともと父か母が好きだったのだろう。ミヒャエル・エンデの本が家には何冊かあった。
その中でも『モモ』は人気だ。兄弟が読んでハマって親と感想を共有しており、私にはそれが羨ましかった。
- 作者: ミヒャエル・エンデ,大島かおり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/16
- メディア: 新書
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確か私は小学校中学年くらいだった。そんなに面白いのか、と分厚い本を開き文字を追ってみたが、どうも頭に入ってこない。
見知らぬ外国の、身寄りのない子の話である。
挿絵も色彩がなく、無機質な街の絵だったから、話も無機質であるような印象を抱き、途中で読むのをやめてしまった。
これを「面白いとする」感覚が理解できなかった。そのまましばらく、無機質で味がない印象を『モモ』に持って過ごしたのだと思う。
その後、どういう経緯でまた『モモ』を手に取ることになったのかは覚えていない。
とにかく私はもう一度『モモ』を読んだ。
前読んだのは違う話か?と疑うほど、どんどん引き込まれた。
確かに物語はどんどん無機質な、灰色の世界になっていく。その波にひとりのまれず、友達を助け前の暖かい世界を取り戻すために戦うモモと、時間が奏でる壮大な音楽、鮮やかな時間の花が咲き乱れる光景が眼前に広がるようで、夢中でページをめくった。文庫本だと400ページ近くある話だが、2〜3日で読んだと思う。
なぜ『モモ』の面白さが分かるようになったのか。年を重ねることで経験が増え、違う世界に触れるようになり、吸収できるものが変わったのだと思う。
本に抱く感想、面白さは、本を読む時の自分が何を持っているか。それによって左右されるのだ。
名著は、もう一度読むといい。
いま、私の手元には『モモ』の文庫本がある。
最近また手にとって読んでみた。すると、43年前に書かれた児童文学であることに衝撃を受ける。灰色の男に丸め込まれる人々の描写が、まさに今の現代のこと、自分の事を言われているようだ。
無駄な時間は切り捨てて、とにかく早く仕事をし、いつもせこせこ、いらいらする大人は、今の自分と差があるだろうか。
なんでこんなに時間が無いんだろう、と思いつつも、さらにせこせこして毎日が過ぎていく。
また、人の話を聞くのが上手なモモの魅力も分かる。しゃべるのは得意な人はたくさん居るが、聞くのが上手い人にはあまり出会わない。話しているうちに本当の自分に気づかせてくれるような、心の奥まで見てくれるような人に出会えたら。
私が願っていたこと、忘れていたことをモモが思い出させてくれる。
確かに私は変わった。子供の頃に持っていたものは明らかに失っているし、子供の頃になかったものを明らかに持っている。子供の頃に読んだ感動とは違う感慨がある。
それが良い変化なのか悪い変化なのか、複雑な気持ちにはなるが。
名著のすすめ
長く読み継がれている作品は、それだけの理由がある。
多くのひとが「面白いとする」話を知るだけで有意義だと思う。ただ、すぐに無理して読むべきとは言えない。私も一度抱いた印象がありながら、よくまた『モモ』を手に取ったと思う。読めるまで、共鳴できるものが自分の中に出来るまで、そっと置いておいても良いのではないか。
そして自分でいろいろ経験した後に読むとまた染みる部分がある。味わいの変化を楽しむ事が出来る。
教科書で読んだ時に小難しいなーと思った夏目漱石の『こころ』や、森鴎外の『舞姫』、中島敦の『山月記』は、今読んだらどんな感想を持つだろうか。
これら著作物については、読むと病みそうというイメージがあるため敬遠中だ。
ただ、いつかこれらの世界を理解出来るようになればいいと思う。