大橋の笑いの種

社会をとらえ直すためのブログ(さまぁ〜ず多め)

子供の頃読んだ本–『モモ』ミヒャエル・エンデ–

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名著は、分かるときに読めばいい。

私は家族の中では一番年下で、いつも背伸びをして家族の話に加わっていた。

ある時、家族の中で『モモ』ブームになった。もともと父か母が好きだったのだろう。ミヒャエル・エンデの本が家には何冊かあった。

その中でも『モモ』は人気だ。兄弟が読んでハマって親と感想を共有しており、私にはそれが羨ましかった。

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

確か私は小学校中学年くらいだった。そんなに面白いのか、と分厚い本を開き文字を追ってみたが、どうも頭に入ってこない。

見知らぬ外国の、身寄りのない子の話である。

挿絵も色彩がなく、無機質な街の絵だったから、話も無機質であるような印象を抱き、途中で読むのをやめてしまった。

これを「面白いとする」感覚が理解できなかった。そのまましばらく、無機質で味がない印象を『モモ』に持って過ごしたのだと思う。

 

その後、どういう経緯でまた『モモ』を手に取ることになったのかは覚えていない。

とにかく私はもう一度『モモ』を読んだ。

前読んだのは違う話か?と疑うほど、どんどん引き込まれた。

確かに物語はどんどん無機質な、灰色の世界になっていく。その波にひとりのまれず、友達を助け前の暖かい世界を取り戻すために戦うモモと、時間が奏でる壮大な音楽、鮮やかな時間の花が咲き乱れる光景が眼前に広がるようで、夢中でページをめくった。文庫本だと400ページ近くある話だが、2〜3日で読んだと思う。

 

なぜ『モモ』の面白さが分かるようになったのか。年を重ねることで経験が増え、違う世界に触れるようになり、吸収できるものが変わったのだと思う。

本に抱く感想、面白さは、本を読む時の自分が何を持っているか。それによって左右されるのだ。

 

名著は、もう一度読むといい。

いま、私の手元には『モモ』の文庫本がある。

最近また手にとって読んでみた。すると、43年前に書かれた児童文学であることに衝撃を受ける。灰色の男に丸め込まれる人々の描写が、まさに今の現代のこと、自分の事を言われているようだ。

 

無駄な時間は切り捨てて、とにかく早く仕事をし、いつもせこせこ、いらいらする大人は、今の自分と差があるだろうか。

なんでこんなに時間が無いんだろう、と思いつつも、さらにせこせこして毎日が過ぎていく。

また、人の話を聞くのが上手なモモの魅力も分かる。しゃべるのは得意な人はたくさん居るが、聞くのが上手い人にはあまり出会わない。話しているうちに本当の自分に気づかせてくれるような、心の奥まで見てくれるような人に出会えたら。

私が願っていたこと、忘れていたことをモモが思い出させてくれる。

 

確かに私は変わった。子供の頃に持っていたものは明らかに失っているし、子供の頃になかったものを明らかに持っている。子供の頃に読んだ感動とは違う感慨がある。

それが良い変化なのか悪い変化なのか、複雑な気持ちにはなるが。

 

名著のすすめ

長く読み継がれている作品は、それだけの理由がある。

多くのひとが「面白いとする」話を知るだけで有意義だと思う。ただ、すぐに無理して読むべきとは言えない。私も一度抱いた印象がありながら、よくまた『モモ』を手に取ったと思う。読めるまで、共鳴できるものが自分の中に出来るまで、そっと置いておいても良いのではないか。

そして自分でいろいろ経験した後に読むとまた染みる部分がある。味わいの変化を楽しむ事が出来る。


教科書で読んだ時に小難しいなーと思った夏目漱石の『こころ』や、森鴎外の『舞姫』、中島敦の『山月記』は、今読んだらどんな感想を持つだろうか。

これら著作物については、読むと病みそうというイメージがあるため敬遠中だ。

ただ、いつかこれらの世界を理解出来るようになればいいと思う。