大橋の笑いの種

社会をとらえ直すためのブログ(さまぁ〜ず多め)

人間は羊と同じである ーマーク・トウェイン『不思議な少年』ー

(この記事は暗めです、念のため。)

また選挙がやってくる。いつも思いだすことがある。

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 マーク・トウェインの『不思議な少年』で、サタンが言うセリフだ。

「ぼくは人間ってものをよく知ってる。羊と同じなんだ。いつも少数者に支配される。多数に支配されるなんてことは、まずない、いや、絶対にないと言ったほうがいいかもしれんな。」

不思議な少年 (岩波文庫)

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これだけだと「は?」となるだろう。

まず、この話のあらすじを紹介させて欲しい。

 

村の3人の少年たちの前に、自らを天使サタンだと言う美少年が現れる。サタンは不思議な力を使い、少年たちに様々な奇跡を見せる。

ある日、サタンと少年達は魔女狩りの現場に出くわす。魔女の疑いをかけられた女性に対して、見物人は石を投げる。3人の少年たちも、周りに流され石を投げる。サタンはそれを見て爆笑。

心の中ではいやだなーと思いながら石を投げた少年の事と、さらに、他の人間の事も笑ったのだという。どういうことか聞く少年に、サタンは説明する。

あの現場には68人の人間がいた。そのうち62人までは、少年と同じだった、石なんか投げたくなかったのだと。

それで、さっきの言葉だ。ほんとうは石なんか投げたくない多数が、石を投げる少数者に支配され、石を投げてしまう。

そのあとサタンの言葉はこう続く。

「感情も信念も抑えて、とにかく、いちばん声の大きなひと握りの人間について行く。声の大きな、そのひと握りの人間というのが、正しいこともあれば、まちがっていることもある。だが、そんなことはどうだっていいんで、とにかく大衆はそれについて行くのだ。」

 

いつも私達は、「多数の力」で世の中が動くと勘違いしている。

何か決めるとき、私達はだいたい多数決をとる。確かに決定は数の力でなされるが、そもそも個人の意思は、声の大きなひと握りの人に影響され決定されているとは思わないか。声が大きい、とは物理的なことではなくて、発言力のある人。

いじめが起こる時に、このしくみに気づくだろう。

いじめの中心人物は通常魅力的な人で、何らかのきっかけで他の誰かに悪意を向けた瞬間、周りの人達は敏感に感じ取り、同じことをし始める。

いじめがどういうものか忘れた人には以下がおすすめ。

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

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大衆は、正しいか正しくないかは考えないようにし、特に信念もなく、もしくは声の大きい人が言うことを自分にとっての信念なのだと思い込んで、ついて行く。

声の大きい人と同じことをしているので、自分が標的になることもなく、自分の行動を責められることもない。だって、みんな同じことしてるもんね。

なんて滑稽な、悲しい習性だろうか。

 

思えば、歴史なんて大衆が右往左往した積み重ねで、声の大きい人が正しかったか、そうでなかったかで結果が変わっているだけのことに過ぎない。

魔女狩りをはじめとする迫害や、戦争や、革命や、政権交代

おかしなもので、後から振り返ったときに大衆は「だまされた」とか「期待してたのに」とか被害者の顔で語る。いやいや、あなたが愚かだったからではないのか。影響されやすい、弱い人間だったからではないのか。

 

選挙は、前に選んだ人に対しての評価と反省と、それを踏まえて新しい人を選ぶ、2つの意味がある。この時期の報道を見ると、いつも私はサタンを思い出す。「人間は羊と同じだ」と思う。物理的にも声の大きい戦いが繰り広げられ、より声の大きい人と、それについていく大衆の構造が出来上がり、結果が出る。

 

結局大衆は何を選んでいるのか、と思うし、自分に対しても思う。安心を選んでいるのではないか、声の大きさに影響されていないか、そもそも声が大きい人の声しか聞こえてないのではないか、考える。

 

大衆は羊の習性を捨てなければならないが、その努力は何世紀も続いてきて、結局気づいた時にはまた羊になっている。

このまま大衆が羊であるなら、大衆を率いていく人は羊飼いの技術があればよい。もう政治家は、大衆のことを羊だと思っているのかもしれない。

願わくば、正しい人間が羊飼いであることを。