大橋の笑いのタネ

(さまぁ〜ず多め)

自分にルールを課す、という事

梅雨の晴れ間。

赤信号で止まっていると、学校帰りであろうか、中学生と思しき少年が歩いてきた。

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彼にどんな使命があるか私には分からない。いつからそうやっているかも分からない。

ただそれを垂直に維持することで世界が救われるのだ、と言わんばかりの集中力で、彼は手を、腕を動かしている。そしてそのまま、横断歩道を渡っていった。

 

彼は周りの人間をもれなくニコニコさせていた。

おそらく全ての人が一度はこの『傘バランス』もしくは『ほうきバランス』の使命を負ったことがある。

そしていつの間にか、使命を忘れる。

 

子供の心を持っていると、自分で様々なルールを作って、「クリア」することに全力をかける。道路の白線だけ踏んで帰ろう、とか、計算ドリルをアニメのオープニング曲中に終わらそう、とか、次の信号まで100歩でたどり着こう、とか。

(大人の心で思えば)特に意味のない、不自由な設定で自分を縛って、その範囲内で自分がどれだけのパフォーマンスを発揮できるか、どきどきわくわくしていた。

自分で設定したルールでクリアしたときの、かつてのあの達成感は、確かに自分の可能性を広げてくれたし、自分を自由にしてくれた。

 

どうしてだろう。大人になると外から設定されるルールが増えて、それに従うばかりになってしまう。楽しくないし、やる気もでないはずだ。

子供が使命を負っているのを見て、自分もかつてはそうだったことを思い出し、かつてのどきどきわくわくや達成感、キラキラした世界を思い出す。

同時に今の自分からはすでに失われたものだと思う。自分でルールを設定してみることも、しない。自分で自分を不自由にしてみること、それを純粋に楽しむことさえ忘れている。

子供の心を、うらやましいと思う。

 

だから、「傘バランス」の使命を負った少年をみて、大人達は微笑むのだ。