大橋の笑いのタネ

(さまぁ〜ず多め)

元ガラケーユーザーの悪夢

突然ですが、携帯電話で文字を打つときの入力方法は何を使っていますか?

 

①フルキー

英語入力画面になっててすみません。こういう風なキーボード配列になっているもの。

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②テンキー

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大橋は長らく①のフルキーで入力していました。

フルキーを使ってきた理由

  • パソコンのキーボードと一緒なので慣れている。
  • 言葉をかな入力に置きなおすのが、非常に面倒。

(例)

「ちょっとtyotto→た行の2番目+や行の5番目の小文字+た行の3番目の小文字+た行の5番目」

「ヴィラvira→あ行の3番目に濁点+あ行の2番目の小文字+ら行1番目」

ヴィラとかめったに入力しませんけどね。

 

これ!!ガラケーをしばらく使ってた人は、どの時点で気づきましたか?

「お」を入力するためには「あ」を5回カチカチしないといけない、と思いますよね?

ずっと「指載せてるとなんか出てくるな」と思ってましたが、まさか、押しながら上下左右にスワイプすると、文字入力ができるなんて!

ネイティブのタッチパネラー(はじめからiPhoneなどを使用していた人)に言われて初めて気づきました。

ガラケー時代はボタンでカチカチするしか方法がなかったから、カチカチカチカチやってたもんです。メール打つと親指が痛くなったりして・・・とかも、もう無い現象なんですね。しみじみ。

フリック入力の方法を知ると、「お」や「こ」に対するやる気が湧いてきます。

おおおおおおこおこおこ おほほほほほほほほほ ととろととろ とろろとろろとろろ

 

テンキー入力に変えました。

iPhoneの初期設定からフルキーがなくなったものあり、テンキー入力に変えました。慣れていくと、むしろフルキーのローマ字入力の方が不便に感じます。

携帯電話は片手で持ちながら入力するので、フルキーで入力すると、左手からは「o」「p」右手からは「a」「s」という重要なポジションに指が届かない。

キーの面積が小さいので隣のキーに触れてしまうなど、打ち間違いが多くなる。

なんでこんなことやってたんだろ、と思うくらい不便です。

 

そんな最近、夢をみました。

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いや、パソコンはフルキーでお願いします。

入力スピードはフルキーが断トツです。

しかも、夢ではタッチパネルじゃないのでフリック入力が出来ず、「お」は、「あ」を5回カチカチしないといけなかったんです。

めっちゃストレス溜まりますよ。めっちゃ怖くないですか?

 

そんな、夢の話でした。失礼いたしました。

6/8さま×さま 胴長おじさんの、オシャンティーな話

テレビ朝日の『さまぁ~ず×さまぁ~ず』ではおじさん達の日常のつぶやきが聞けます。自分の日常の感覚だと見逃しがちな、くすっとすることや、はっとすることがあります。

 

先週6/8に放送された回で、開始早々「なんなの!オシャンティーって!」とご立腹な大竹さん。

会議で”お洒落”の事を「オシャンティー」と言っている若者に違和感を感じたそうで。

 

それに対する三村さんの解説 ↓

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ノッて、自分でツッコむ三村さん。

それにしても 2人とも、即座に語尾が「ンティー」で終わる言葉を見つけている んです。

日々言葉を武器に戦っているからですね。ゆるそうに見えて何気にすごいって、本当にすごいです。

あと、出ました『パンティー問題』。以前にも、さま×さまでは”女性はパンティーをパンティーと呼ばない問題”を扱ったことがあります。では何と呼んでいるのか、検証しましたが、パンツ?ショーツ?そういえば売りものは”ランジェリー”って書いてあるかも!とピンとくる答えは見つからず。女性は”パンティー”って呼んでいるおじさんに引いてしまうのではないか、とおじさんならではの懸念も出てきます。

確かに”パンティー”って神聖化しているような、それこそオシャレに言っているようなキザな感じを受けるので、よろしくないかもです。

普通にパンツでいい気がしますが、いかがでしょうか。

 

どうしても「オシャンティー」と言われると、バカにされている!とさまぁ~ずの2人は感じてしまうよう。

世代によって人によって、言葉の受け取り方が違うってのは、興味深いですね。

 

話は変わって、最近どう?に対する三村さんの息子の成長日記。

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三村「やだよそいつーー!!( ゚Д゚) この後胴しか伸びないの?」

大竹「そこはもうあきらめないと」

 

遺伝子と、時代との戦いをこれから息子くんはする訳ですね。

続報に期待。

6/11モヤさまin Paris〜おじゃんに出来る男、大竹一樹〜

久々にモヤさまのハイライトをお届けします。

6/11に放送されたモヤさまでは、海外ロケ20回目にしてフランスの花の都・パリをぶらぶらしました。

初Parisにテンション高めの三村さん。

エトワール凱旋門に登っちゃう!?となりますが、中は果てしない螺旋階段。アラフィフのおじさん達は頑張って登り始めます。

ちなみにモヤさまでは長い階段を登ることが多いです。

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「さすが、富士山を9合目まで登っておりた奴!」

と三村さんは言ってました。

 

みんな、おじゃんにできない。

大橋の敬愛する佐藤雅彦氏が、毎日新聞に月イチで掲載していた『毎月新聞(第9号1999年7/21発行)』に、「おじゃんにできない」というコラムが掲載された。なぜこんな昔の新聞の内容を話せるかというと、一冊の本にまとまっていて、古本屋さんで見つけたからだ。

ピタゴラスイッチ含むEテレの空気感が好きな人、理屈っぽくて他人に「そこ気にする?」と言われたことがある人にはおすすめ。

毎月新聞 (中公文庫)

毎月新聞 (中公文庫)

 

 「おじゃんにできない」の内容は、こうだ。

朝出かけようと玄関でしっかりと靴のひもを結んで、「よし!」と出発しようとした時に、定期券を机の上に置いたままだった、と気付くとする。よくあることですね。あなたならどうするだろうか?

世間体とか考えないで正直に答えましょう。

佐藤雅彦氏の会議メンバー達からは、新聞紙の上に乗って移動したり、ハイハイしたり、出来るだけ接地面が少なくなるように歩いたりと、バラエティーに富んだ解答が次々に出たそうだ。

(ちなみに大橋は同じ状況に陥った時に、「背に腹は代えられない」と土足で部屋に踏み込んだのを親に怒られたことがある)

佐藤雅彦氏は、”靴を脱いで取りに行く”という至極あたりまえの解答がでないことに驚く。

しかし、なぜ靴を脱いで戻る、こんな簡単なことができないのでしょうか。~中略~

それは、せっかく始めてしまったことをおじゃんにして、一からやり直すことにとても抵抗があるからではないでしょうか。~中略~

新しいことを始めるのはかなり意思の力が要ることですが、一旦走り出してしまったものを停めるにもやはりそれ以上の意思の力が必要なのではないかと思うのです。

せっかく建て始めたダムだから、必要ないかもだけど建てる。

戦争が泥沼になっているけれど引き際が分からない。

毎年やっているプロジェクトだから、今年もやる。

 

「おじゃんにできない」でいる事がなんて多いのだろう。

私達の日常には、慣性の法則が働いている。

動かすためにも、いったん走り出したものを停めるためにも、力が必要だ。

 

おじゃんに出来る大竹一樹のすごさ。

大竹さんは、やはり普通の人ではない(ほめています)。

普通の人であれば、あの富士山に、しかも9合目まで登ったものなら、あとちょっと踏ん張って頂上まで行き、達成感を味わいたいと思うはずだ。9合目まで来て、頂上からの景色を見ないなんてもったいなさすぎる。今までの頑張りも無駄になってしまう。

だが、大竹一樹はそんな論理では生きていない。私なんかが大竹さんの心理を解明することは出来ないのだが、たぶん、いつも先に進むかどうかをいったん考えてみている。自分の気持ちや体力や周りの状況を考慮して、動くときはまた動くし、必要なければ停まってみる。

大竹一樹には慣性の法則が働いてない。という感じがする。

 

まるでどうしようもないように思える大竹さんの特性だが、活きる場面はある。

例えば富士登山に限らず山登りをしていて、天気が悪くなったとする。普通の人であれば、せっかく仕事も休みを取ったし、計画も立ててあるし、せっかくここまで来たし、登ろう。という判断になる。

それで事故にあってしまうことが非常に多い。一度動き出して勢いがある時は、危険が見えても止めることが難しい。

 

大竹さんなら

「雨が降ってきたよぉー、体が冷たい・・・、え!?今なんか空がピカッてならなかった??・・・もう下ります(-_-)」となる(想像)。

さすがネガティブ代表、危機管理能力が異常に高い。

 

おじゃんになると落胆と憤りを感じるが、危機を免れる幸福には代えられない。あとはさまぁ~ずの場合は笑いになる。

何かを終わらせられる、「おじゃんに出来る人」って意外に少ない。終わりを言い出したら、おじゃんになった落胆と憤りは、その人が背負わなければいけなくなってしまうから。

そこを大竹さんは意識しているのか分からないけれども、希少な「おじゃんに出来る」人を、この先も観察し続けましょう。

 

おまけ

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結局、凱旋門から見る景色は、『高い所から見る景色』ですものね。

見たいものは遠くから見るに限る。

 

親を大事にしなさい、という人が好きになれない

「親を大事にしなさい」「親に感謝しなさい」という人を信用できません。

どうしたらいいのでしょうか。

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先日、知人から思わぬ話を聞いた。


彼女の親は、税金を払っていなかった期間があるとかで年金の支給額が少なく、一人では暮らしていけない。それどころか、どこからかお金を借りているようで、お金が足りない、と彼女にたびたび金の無心に来る。

渡せるお金がない、と言うと親は怒って「親を見捨てるのか」と手が付けられなくなる。近所の目もあり、結局なんとか他のお金を削って親にお金を渡す。


彼女には子供がいる。削るのは子供のためのお金だし、将来の選択肢だ。

たぶん精神的に限界に来ていたのだろう。私に話すつもりはなくて、ついこぼれてしまった感じの話だった。


私は「自分と子供の生活を優先したほうがいいよ」と言った。

彼女は声を詰まらせた。

頼れる身内はいないのか、と聞くと、親戚には「今まで育ててくれたんだから、あなたが支えてあげなさい」とか「親に生活保護を受けさせるなんて、恩知らずだ」とか言われるらしい。

 

私は愕然とした。

 

「親を大事にしなさい」は人を殺す言葉でもある。

彼女の境遇を考えると、親を大事にするということは自分を殺すということだ。親のためにお金を渡して、子供に我慢させて、いったいなんのための人生なんだろうか。

 

親戚が「親を大事にしなさい」としか言えない理由も分かる。その親子に少なからず関係している立場だから、家族を否定してはいけないだろうし、じゃあ代わりにその親の面倒を見てくれるのか、と言われてしまう恐れもある。親を大事にしてくれないと、かえって自分たちの負担が増えてしまうのだ。

行政だってそうだ。家族間で助け合ってもらえば、税金を投入して養う人が減る。

そうやって、彼女の周りからは、彼女を救う人は誰もいなくなる。

親を負担と感じている自分が悪いのだ、大事にできない自分が至らないのだと自分を責めてしまう。

 

「親を大事にする」という耳障りのよい、やさしい言葉は、人を残酷に追い詰めるという悲しい現実を目の当たりにした。

大人に道徳の時間は必要ですか?

親を大事にする、という考え方は、子供に言って聞かせるものだ。母の日なので感謝の手紙を書きましょう、父の日なので、似顔絵を描きましょう。

道徳の時間で教えられるのも、とかくきれいな世界。誰も反対できない世界。

子供の頃のほうが純粋に道徳的なことが出来る。自分は他から守られている存在で感謝しないと生きていられないし、自分が守らなければいけないプライドとか世間体は特にない。

子供のころに基本的な道徳原則は持っていたほうがよくて、この原則が欠如したまま大人になると、とんでもないことになる。

ただ大人になると原則に当てはまらない例外があることを、社会に出て知っていくことになる。例外を目の当たりにしたときに、どんな判断をするかで人の魅力は大きく変わるように思う。

子供の道徳の読み物にでてくるような単純明快な答えばかり出す人は、薄っぺらい人間に感じる。

 

葛藤があるからこそ人間らしい

人々を魅了し読み継がれてきた古典には、義理と人情に板挟みになる人間の葛藤がよく描かれている。

 

義理

物事の正しい道筋。人間のふみおこなうべき正しい道。道理。 

人情

人間の自然な心の動き。人間のありのままの情感。

人としての情け。他人への思いやり

平家物語『敦盛の最期』の、”息子ほどの年齢の若武者を討たなければならない定め”

石川五右衛門やねずみ小僧に代表される“盗んだ金を貧しい者に与える義賊”

森鴎外高瀬舟』の”苦しむ弟を死なせてやった喜助の罪”


義理と人情のどっちを優先すべきかとか、どっちが絶対に正しいとか、言い切ることは出来ない。義理は守らなければいけないが、それだけではないと心が叫ぶ。

こうすべきだった、だがそうするしかなかった、という葛藤が人を泣かせ、救うのだ。


最近は上記のような作品は人気がないのだろうか。守るべき義理ばかり優先されている気がする。それでは、誰も救われない。


親は大事にすべき

という呪縛を解いてあげられる人がふえますように。

【消費社会②】ごほうびを勘違いしているプレミアムフライデー

 たまにはリッチな気分も味わいたい大橋。

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☆おさらい☆

むかし、「ごほうび」という中毒性があるプログラムは、一方的に企業から提供され、末端の消費者は「ごほうび」をダウンロードしまくっていました。

 

 ごほうびをダウンロードしなくなった消費者

 ここ最近は、既存のごほうびの構造が崩れているように思う。あえて質素な生活を提案している人が多くいらっしゃいませんか?質素な、というより健康的な、技術の発展に逆らうような生活。

 

外食より自分で料理

自然素材

無添加

ものを持たない

 

彼らはもう「ごほうび」をダウンロードしていない。自分にとっての幸せは何なのかを理解している。

そして、この「ごほうびをダウンロードしない消費者」を企業は無視できなくなっている。”糖質カット"とか"〇〇100%"とか"肌にやさしい"とか、彼らの生活に合わせた商品も展開するようになった。

これは、ごほうびの概念が企業にアップロードされているということだ。わたしたちが本当に嬉しいものはこういうものです、が企業に伝わっている。

 

ネットがなければこんな状況は起こりえなかった。テレビだったらどうしても情報は一方通行になる。テレビ局もスポンサー関係があるので、消費行動をあおる番組を作らなければいけないのだろう。

その点、ネットであればある程度、企業からは離れた視点で情報を発信することが出来る。「あ、それ、なくても大丈夫です」と言える。

 

消費社会からの脱却

企業が提案するごほうびを消費者がダウンロードしなくなれば、経済的には終わりなのかもしれない。アップロードされたものを再度商品化していく道筋はあるが、新しいものを次々に買ってもらわなければ、仕事は無くなるし、給料も減るし、経済が停滞する。それはよくない。

 

だが、大量消費で維持される繁栄って、よい形の社会なんだろうか。

 

”日常”でみんながそこそこ幸せになる事はないのだろうか。

 

経済は成長し続けることが出来るのか。

 

宇宙は広がり続けているというが、経済のカラクリは宇宙と同じなのか。

(バブルが歴史上何度も起こっているが、丁寧に膨らませれば大きくなり続けるのだろうか)

 

 ・・・・・

 

私たちはもう「そんなにいらない」ことを知っている。

 

 

ごほうびを勘違いすると政策もうまくいかない

政府と経団連主導でプレミアムフライデーが始まったが、

疲れているので帰って寝ます(・ω・)ノ ではお上は喜ばないだろう。消費者にお金を使ってもらってお金のまわりを良くしたいという考えを、なぜかまったく隠そうとしないですね。

これ買ってください!じゃなくて、これはあなたの生活をこんなに良くしますよ~、というスタンスでPRするのが営業の極意ではないのか・・・経団連よ。

 

どっちにしろ、私たち消費者にとって、プレミアムフライデーは魅力を感じるような「ごほうび」にはなっていない。いくらプレミアって言っても素直にダウンロードされないのだ。

残業があるから、とか、給料が低いから、とか、いろいろ問題は指摘されている。

が、万が一、何かの間違いで会社が午後3時で終わったとしても、お金があったとしても、おそらく「ダウンロードしない消費者」は、週明けに備えて仕事を片付けたり、趣味の時間にあてたり、ゆっくり自分の時間を過ごしたりする。

商品やサービスに魅力がないから企業努力が必要、という話でもない。時間とお金をわざわざ費やしてまで特別「何かを消費する時間」が欲しいとは思わなくなっているのだ。

 

 【まとめ】

一方的に「ごほうび」化すれば素直にダウンロードされ、消費される時代は終わっている。

お上や企業は、消費者が思う「ごほうび」をきちんとアップロードして、修正して再度提示してみて、そうやって双方向でのやり取りを続けていけば、多くの人が望む、良い形のごほうびに近づくのだと思う。

 

 

【消費社会①】ポテチはなぜやめられないのか

テレビをつけるとどの局もCM、という事がよくある大橋。

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(※目を閉じたほうがおいしそうに見えるから目を閉じて飲んでください、と三村さんは指導されたらしい。)

 ああ、なんて素敵な生活。こんな満ち足りた暮らしを送りたい。

 

「ごほうび」化してPR。それをダウンロードする私達

ところでCMで流れる商品は、生活に絶対に必要ではない。もちろん必需品のCMもあるけれど、ほとんどが無くても生きていける商品、「ちょっといい思いをしたい」時に手にする商品だ。

新車、ビール、宝くじ、パチンコ、お菓子、カードローン、ゲーム・・・

 

CMを見ることで、背伸びをすれば手に入れられる幸せ=「ごほうび」のイメージが、自分の中に形づくられる。これをごほうびのダウンロードと呼ぼう。ダウンロードされると、それを実行したいと願う。

ごほうびを実際に手に入れた時は、確かに心を楽しませる商品なので、満足感がある。

 

ごほうびの効果

  • 依存性

一度味わうと、また欲しくなるごほうび。

商品自体に中毒性があることが多く、手に入れるための障害がなければ、際限なく求めてしまう。

例えば、子供から大人になり、社会的にも経済的にも独立したときに、自分の欲求のままに買い込んで満喫した事はないだろうか。

いわゆる大人買い』ってヤツだ。

 

私は、ポテチ一袋を1日で空けるという、今までであれば決して許されない禁断の扉を開けたのが、一人暮らしを始めてからだった。

始めて味わう禁断の幸福。こんなことがいくらでも出来るなんて、と幸せをひとり噛み締めた。

ただそれが毎日続くと、話は別だ。

始めは毎日ごほうびが得られる幸せを感じていたのに、ごほうびが「日常」になる。そうなると元の生活に戻すのは非常に難しい。

禁煙ならぬ、禁ポテチ、禁ゲーム、禁クレジットカード・・・

もともとがごほうびだから、ごほうびを取り上げられる屈辱感、ステータスを失う恐怖がある。周りの目もある。

なかった時に戻るということは、生活のレベルを下げるということ。さらっと手放せる人はあまりいない。

 

  • 経済効果

ごほうびを手に入れられると楽しく、周りの目もあるので、また次のごほうびを探し始める。ごほうびは絶えず更新されるし、私たちはダウンロードを繰り返す。

日本ではずっとこの構造が続いていた。洗濯機に始まり、エアコン、テレビ、電子レンジなどは、登場した時は「ごほうび」だった。いい生活が出来ると夢見させた商品が、今や必需品で、すぐに新商品が出て、そして大量生産、大量消費。

この仕組みが続けば経済が回り、潤う。

 

これを読んでいる大部分の人も、モノ(サービス)を売ることを仕事にしており、そこから発生する給料で生活しているだろう。

私は失職を願っている訳でも、仕事をけなしている訳でもない。

ただちょっとだけでも、本来の「ごほうび」に近づけられないだろうか、と思っている。

 

それは本当にごほうびか

持てる時間の大半をゲームに費やしたり課金を続けたり、

払い切れないのにローンで新車を買ったり、

健康診断の結果に怯えつつ暴飲暴食したり、

・・・それって幸せですか?

 

ごほうびを”非日常”にし続ければいいのだが、手に入れたい気持ちが上回ってブレーキが効かなければ、際限なくごほうびを求め続け、身を滅ぼす事になる。

 

ダメだと分かっちゃいるけど、やめられないんだよね〜

それは当然。あなたを依存させるために、企業が全力で計算して、全力で商品をつくっているからだ。

ごほうびを止めずに求めたら最悪どうなるか。そのごほうびは自分と自分の生活を高めるものなのか。

そろそろ立ち止まって考えてみてもいいんじゃないかと、私は思う。

 

※車については、生活必需品になる地域があると理解しているつもりなので、あえて「新車」と表現しました。それでも気分を悪くされた方がいれば申し訳ないです。

カルディのコーヒー以外の、「お!」ってやつ

今週のお題「おやつ」

 

カルディコーヒーファームは食欲というより探究心に訴えかけてきます

いろんな商品に思わぬところで出会い、見て回るとあれこれ買って試したくなる。

 

で、食生活を改善すると言っておりましたが、たまにはいいよね☆的な言い訳で買ってしまいました。

 

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カルディコーヒーの『ポロショコラ』。

 

これ5切れになっていて

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 ひと切れこんな感じで、カフェのケーキセットになってるガトーショコラくらい美味しい絶品なんですが、

 

5切れで358円!!

5切れで358円ですよ奥さん!!!

 

買わなきゃ損、も言い訳にしてます。

ひと切れひと切れ、丁寧に食べればいいのです。すでにふた切れ食べてますけどね。

 

健康志向おやつも。

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 とても健康そうです。ケーキとこれとでバランスを?とります。

 

今までであれば、プラスしてこういうものを飲んでいた。

あとは、コーヒーフレッシュの容器に入ったキャラメル。

ミルクではなくてキャラメルコーヒーにするやつ。説明が難しい。誰も買っているところを見ないけれど、結構前から店舗に置いてある。

 

そういえばカルディって商品の入れ替えがあまりないイメージだ。行けばあの商品が必ず置いてある、という信頼がある。

あらかじめヒット商品を見極める目があるということだろうか。

地味にカルディにしか置いてない商品欲しさにまた寄る、という事が多い。キャラメルのやつを買うために何度通ったことか。

 

最近は甘いものを控えようと思っているが、ポロショコラを買ってしまったし、甘くなければいいかと思うとチーズ、ハム、ナッツ、フルーツ・・・どれもカルディにある。おやつの宝庫だ。

誘惑が多すぎる。たまにならいいんですけどね、たまになら。

そしてやはり間食は減らず、健康的な食生活から遠くなってしまうのだ。